金子みすゞとクジラ
- 副塾長
- 3月31日
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2023年に山を登りながら日本を北上していたときのこと。
金子みすゞさんが好きなので、山口県の長門市を訪れた。
金子みすゞさんの故郷である長門市の青海島の通(かよい)という地区では1600年くらいから鯨漁が盛んで、通という地名も鯨漁師が本土から青海島のさきっちょまで通ってたから通(かよい)という地名になったそうな。
そのうち、通うのが面倒になって小屋を建てたから通わなくなったけど、昔の名残りで通(かよい)という名前は変わらず。
そんな通がみすゞのお父さんの出身地で、みすゞが3歳のときに亡くなってしまったらしい。
通には鯨墓があって、捕らえた鯨のお腹に胎児がいた場合、人間のように戒名をつけて丁寧に弔うように青海島の禅僧が始めて、400年以上その風習が残っている。
墓石には
永眠する鯨の胎児の姿が、まだ見ぬ大海に届くように、またはるばると訪れた鯨たちが、先祖の墓参りがしやすいように、との思いが込められてる。
みすゞは物心つく前にお父さんを亡くしているから、それだけにお父さんに想いを馳せることが多くて、その時間も長かったろうと思う。
それにお父さんのルーツを訪ねて、ここ通地区にもきっと行っただろう。
だからこそみすゞは
大漁のような詩をかけたんだろうな、と。
お父さんのことを想ううちに大漁の詩もできたんだろうな、と。
大漁(たいりょう)
朝焼小焼だ
大漁だ。
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。
浜はまつりのようだけど
海のなかでは
何万の
鰮(いわし)のとむらい
するだろう。
※改行など原文ママ
だから、みすゞの詩は長門の詩だし、青海島の詩だし、通(かよい)の詩だし、お父さんの詩なんだな。
脈々と土地と先祖とその土地の文化の血が流れている。
みすゞの物事を観察する視線や感受性がどうやって養われたかが、やっぱりこの土地にくると分かる気がする。
単純にみすゞさんがやさしい人だったからあんな詩を産み出せたとももちろん言えるけど、お父さんと青海島の面影が詩に見えるようになった、気がする。
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